燈火(あかり)

一夜眠らずに三吉は考えた。翌日(あくるひ)に成ってみると、お雪や勉が交換(とりかわ)した言葉で眼に触れただけのものは暗記(そらん)じて了った程、彼の心は傷(いた)み易(やす)く成っていた。家を出て、夕方にボンヤリ帰って来た。
 夫の好きな新しい野菜を料理して、帰りを待っていたお雪は、家のものを蒐(あつ)めて夕飯にしようとした。土地で「雪割(ゆきわれ)」と称(とな)えるは、莢豌豆(さやえんどう)のことで、その実の入った豆を豚の脂(あぶら)でいためて、それにお雪は塩を添えたものを別に夫の皿へつけた。彼女は夫の喜ぶ顔を見たいと思った。
「頂戴(ちょうだい)」
 とお福や書生は食い始めた。三吉は悪い顔色をして、折角お雪が用意したものを味おうともしなかった。
「今日は碌(ろく)に召上らないじゃ有りませんか……」
 と言って、お雪は萎(しお)れた。
 その晩、三吉は遅くまで机に対って、書籍(ほん)を開けて見たが、彼が探そうと思うようなものは見当らなかった。復た夜通し考え続けた。名倉の母へ手紙でも書こうか、お雪の親しい友達に相談しようか、と思い迷った。
 錯乱した頭脳(あたま)は二晩ばかり眠らなかった為に、余計に疲れた。彼はお雪と勉の愛を心にあわれにも思った。ブラリと家を出て、復た日の暮れる頃まで彷徨(うろつ)いた三吉は、離縁という思想(かんがえ)を持って帰って来た。もし出来ることなら、自分が改めて媒妁(ばいしゃく)の労を執って、二人を添わせるように尽力しよう、こんなことまで考えて来た。
 家出――漂泊――死――過去ったことは三吉の胸の中を往(い)ったり来たりした。「自分は未だ若い――この世の中には自分の知らないことが沢山ある」この思想(かんがえ)から、一度破って出た旧(ふる)い家へ死すべき生命(いのち)も捨てずに戻って来た。その時から彼はこの世の艱難(かんなん)を進んで嘗(な)めようとした。艱難は直に来た。兄の入獄、家の破産、姉の病気、母の死……彼は知らなくても可いようなことばかり知った。一縷(いちる)の望は新しい家にあった。そこで自分は自分だけの生涯を開こうと思った。東京を発(た)つ時、稲垣が世帯持の話をして、「面白いのは百日ばかりの間ですよ」と言って聞かせたが、丁度その百日に成るか成らないかの頃、最早自分の家を壊そうとは三吉も思いがけなかった。
 倒死(のたれじに)するとも帰るなと堅く言ってよこしたという名倉の父の家へ、果してお雪が帰り得るであろうか。それすら疑問であった。お雪は既に入籍したものである。法律上の解釈は自分等の離縁を認めるであろうか。それも覚束(おぼつか)なかった。三吉はある町に住む弁護士の智慧(ちえ)を借りようかとまで迷った。蚊屋(かや)の内へ入って考えた。夏の夜は短かかった。


 三吉は家を出た。彼の足は往時(むかし)自分の先生であったという学校の校長の住居(すまい)の方へ向いた。古い屋敷風の門を入って、裏口へ廻ってみると、向の燕麦(からすむぎ)を植えた岡の上に立ってしきりと指図(さしず)をしている人がある。その人が校長だ。先生は三吉を見つけて、岡を下りて来た。先生の家では学校の小使を使って可成(かなり)大きな百姓ほど野菜を作っていた。
 師はやがて昔の弟子(でし)を花畠に近い静かな書斎の方へ導いた。最早入歯をする程の年ではあったが、気象の壮(さか)んなことは壮年(わかもの)にも劣らなかった。長い立派な髯(ひげ)は余程白く成りかけていた。この阿爺(おと)さんとも言いたいような、親しげな人の顔を眺めて、三吉は意見を聞いてみようとした。他(ひと)に相談すべき事柄では無いとも思ったが、この先生だけには簡単に話して、どう自分の離縁に就(つい)て考えるかを尋ねた。先生は三吉の為に媒妁の労を執(と)ってくれた大島先生のそのまた先生でもある。
 雅致のある書斎の壁には、先生が若い時の肖像と、一番最初の細君の肖像とが、額にして並べて掛けてあった。
「そんなことは駄目です」と先生は昔の弟子の話を聴取(ききと)った後で言った。「我輩のことを考えてみ給え――我輩なぞは、君、三度も家内を貰った……最初の結婚……そういう若い時の記憶は、最早二度とは得られないね。どうしても一番最初に貰った家内が一番良いような気がするね。それを失うほど人間として不幸なことは無い。これはまあ極く正直な御話なんです……」
 三吉は黙って先生の話を聞いていた。先生は往時(むかし)戦争にまで出たことのある大きな手で、種々(いろいろ)な手真似(てまね)をして、
「君なぞも、もっと年をとってみ給え、必(きっ)と我輩の言うことで思い当ることが有るから……我輩はソクラテスで感心してることが有る。ソクラテスの細君と言えば、君、有名な箸(はし)にも棒にも掛らないような女だ……それをジッと辛抱した……一生辛抱した……ナカナカあの真似はできないね……あそこが我輩はあの哲学者の高いところじゃないかと思うね」
 先生の話は宗教家のような口調を帯びて来た。そして、種々なところへ飛んで、自分の述懐に成ったり、亜米利加(アメリカ)時代の楽しい追想に成ったりする。
「亜米利加の婦人なぞは、そこへ行くと上手なものだ。以前に相愛の人でも、自分の夫に紹介して、奇麗に交際して行く―― 'He is my lover' なんて……それは君、サッパリしたものサ。日本の女もああいかんけりゃ面白くないね」
 訪ねて来た客があったので、先生は他の話に移った。
「まあ、小泉さん、よく考えてご覧なさい」という言葉を聞いて、三吉は旧師の門を出た。一歩(ひとあし)家の方へ踏出してみると復た堪え難い心に復(かえ)った。三吉は自分の家の草屋根を見るのも苦しいような気がした。
 家にはお雪が待っていた。何処(どこ)までも夫を頼みにして、機嫌(きげん)を損(そこ)ねまいとしているような、若い妻の笑顔は、余計に三吉の心を苦めた。
 燈火(あかり)の点(つ)く頃まで、三吉は自分の部屋に倒れていた。
「オイ、手拭(てぬぐい)を絞って持って来てくれ」
 こう夫から言付けられて、お雪は一度流許(ながしもと)へ行って、戻って来た。あおのけに畳の上に倒れている夫の胸は浪打(なみう)つように見えた。
「まあ、どうなすったんですか」
 と言って、お雪は夫の胸の上へ冷い手拭を宛行(あてが)った。
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by meronnpann1i | 2006-03-08 19:27


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